さて、七十二候についてはともかく、ではどうして斑鳩が日本では「いかるが」と訓読みされるか、という疑問は残ります。どうひねくっても、そんな読みは普通には出てきません。つまり完全な当て字です。「いかるが」という地名は実は奈良の法隆寺近辺だけではありません。表記文字は皚酵または哮峯で「いかるが」。大阪府北河内の交野市・星田の哮が峯(たけるがみね)地域は、古くは「いかるが」とも呼ばれていました。物部氏の氏神ニギハヤヒを祀る磐船神社に向かう道程の天野川には皚酵橋(いかるがばし)という橋もかかり、一帯の古い地名であったことがわかります。この地域は古族・物部氏の領地で、この地にニギハヤヒが「天の磐舟」にのり降臨したという伝説があります。奈良の斑鳩もかつては物部の領地で、「いかるが」と名づけられた地域だったのです。
ここに後に、蘇我vs物部の戦争に打ち勝った蘇我氏系の聖徳太子が法隆寺を打ち建てます。聖徳太子、そしてその側近の秦河勝(秦氏)を象徴するトーテム(動物霊)こそハトでした。中国のキリスト教宗派・景教と同根の原始キリスト教はシルクロードを経て新羅系の渡来民・秦氏によって日本に伝わり、新羅系仏教と同化しつつ、聖徳太子の厩戸皇子神話として定着しました。
2014年、法隆寺補修工事で北室院の庫裏下から、「鵤寺」と墨書きされた土器が出土しました。これにより、創建間もない頃には、法隆寺が鵤寺と呼ばれていたことがはっきりしました。イカルがなぜ「イカル」と呼ばれるかは、「イカルコキー」とも聞きなせるキレのいい囀りから名づけられたと思われますが、その太いくちばしで硬い木の実をくるみ割りのように割り砕く際、豆を口にふくんで、クルクルと回す独特の習性から「マメマワシ」とも呼ばれます。イカルにとっては完全な音からくるこじつけに巻き込まれたかたちですが、漢字表記が定着していく上代期の中で、いかるがの地名に鵤が当て字になったことがわかります。平安末期の治承年間 (1177~81年)頃の「伊呂波字類抄」(橘忠兼)では、法隆寺について「斑鳩寺」の記載が見られますが、これは分類では「ハ」の項目に入り、当時は斑鳩を「はんきゅう」と読んでいたらしいこともわかっています。
もともと「いかるが」と呼ばれていた地域に聖徳太子が宮を立て、法隆寺を興した。地名にあやかり、この寺を推古期には「鵤(いかる)寺」と呼びならわしていたが、日本書紀編纂の平城京時代になると、聖徳太子/秦河勝=鳩の連想から「斑鳩」の字があてられて、こちらが一般的になっていった、ということなのでしょう。
ハトにしろ聖徳太子にしろ、到底ここでは書ききれない「沼」のような深さを持つジャンルです。それらに興味をもたれるきっかけになれば幸いです。
参照
隠された十字架―法隆寺論 (梅原猛 新潮社)
秦河勝と広隆寺に関する諸問題 (井上満郎 京都産業大学論集)
参考サイト
大和・いかるが考 (辻保治)岩所神社(磐船神社)と哮峯法隆寺別名「鵤(いかるが)寺」の墨書土器が初出土 奈良珠頸斑鳩叫聲