芋銭晩年の畢生(ひっせい)の画業となった「河童百図」は、昭和13(1938)年、つまり芋銭没年の3月に俳画堂から刊行されました。自序で芋銭は「余は唯想像の翼に任せて、筆端カッパを捉らへカッパを放ち 遊戯自在に振舞ひて終に三昧に入るを以って楽しみとなす」と記し、自身の投影であり自由のシンボルであったカッパを自在に、カワウソ、大ダコ、力士、鷺娘、山童、からす天狗、山姥、人魚、金太郎、カカシ、川魚や水鳥などと遊ばせ、伝説や民話、歴史の中に登場させて描きます。
一つとして退屈な画題はなく、それぞれに深遠な造詣と薀蓄(うんちく)がさりげなく織り込まれ、またその筆致は変幻自在で、眺めれば眺めるほど芋銭カッパのかわいらしさやおかしさ、そしてとらえどころのない不気味さに魅入られてしまいます。
第十五図「道在於河童皿」では『荘子』知北遊篇を典拠に、「『道』はどこにありますか」と河童が荘子らしき人物に尋ね「君の頭の皿にもあるよ」と返答されるシーン描かれています。ぽかんとしている小さな河童の後姿のかわいらしいこと。
第三十八図「カッパ楽しむ」。画讃は「カッパ江に浮びて悠々たり 是カッパの楽しめるなり 客曰(いわく) 子(※荘子のこと)はカッパにあらず なんぞカッパの楽しさを知らんと」とあり、『荘子』秋水篇の惠子と荘子の問答を下敷きにしています。薄墨でもやもやと描かれた無邪気な河童。
第五十六図「雌河伯」では、「利根川図志」にも登場し芋銭が長く逗留していた娘の嫁ぎ先・利根町の伝承を基にした禰々子(ねねこ)河童を描いていますが、禰々子は関八州の河童の頭領ともいわれ、大変な暴れ者のメスガッパとして知られているのですが、これを伝承のような恐ろしい姿ではなく、まるで少女のようなぱっちりした目と白い手足で描いています。
第七十図「獺の祭にゆくカッパ」のウキウキした姿。出典は、当コラムでもおなじみの、礼記が原典の宣明暦七十二候の「獺祭魚」です。
挙げはじめるときりが無いのでこのへんにしておきますが、「河童百図」は見飽きることのない逸品です。
芋銭晩年の画室と居室のあった牛久沼のほとりの「雲魚亭」のすぐそばには、芋銭先生記念碑、通称「河童の碑」が建っています。昭和27(1952)年5月、数少ない有志の尽力により建立されたもので、表には芋銭筆による河童の絵を元にしたレリーフ(一部ではこの絵は芋銭画ではないという説が流布していますが間違いです)と、複製色紙に印刷されていた芋銭の筆による画讃「誰識古人畫龍心」が刻まれています。
裏には芋銭の略歴と建立の志が刻まれていますが、記念碑では当然あるべき建立者の名前は刻まれていません。これは建立に奔走した、芋銭の最も深い理解者で記念碑建立の発起人、福島公立病院の池田龍一医師と、建立までのあらゆる実務的差配を取り仕切った東京の洋画家・吉井忠の二人の意志が貫かれたからで、名誉欲・虚栄心に蝕まれた生前の芋銭の知人の中には、自身の名前を刻ませようと画策した者もあったことが、池田、吉井の書簡から明らかになっています。
世俗の欲や虚飾とは一切関わりなく、筆先から生み出されるかわいらしく、それでいて、ときに自然そのものの怖さをギラリとした白目に宿らせたカッパを自由に遊ばせることに専心した芋銭。水墨画のような冬の牛久沼に、芋銭と河童を訪ねてみてはいかがでしょうか。
小川芋銭 河童百図展 図録 (茨城県立歴史館)
小川芋銭研究雲魚亭(小川芋銭記念館)