サヴォニンの澄明で強烈な高地の光は、セガンティーニの画風を大きく転換させました。コローやミレーなどのバルビゾン派に影響を受け、暗めの中間色を多用した画風は、鮮烈で明るい画面へと変化していきました。
アルプス高地の鮮明な色彩と強い陰影、平地の空気遠近法が通用しない遠方までくっきりと見える景観をキャンバスに再現するために、当時フランスで勃興していたスーラらの新印象派による絵画技法、筆触分割による点描技法を応用し、純粋色を細い毛糸のような描線で刺繍のようにつづりあわせて描画していく技法を用い(後にこの技法は分割主義/ディヴィジョニズモと呼ばれるようになります)、純粋色のもつ明度と、分厚く盛った絵の具を微細に重ねていくことで得られるマチエールが織り成す輝きで、アルプスの空気と景観をはじめて描ききった画家となりました。
「編み物をする娘(1888年)」や「アルプスの真昼(1892年)」など、セガンティーニといってまず思い浮かぶさんさんと陽の降り注ぐ牧歌的な作品は、この時代に描かれました。
一方で文学や哲学の書籍を耽読し、その思想をキャンバスにイメージ化した象徴主義的作品もこの頃登場します。凍りついた高山の暗い雪原の精緻な光景を背景に、半裸の若い娘たちが中空数メートルにふわふわと浮いて眠っている幻想的でラファエル前派的な作品は「淫蕩の罰(Il castigo delle lussuriose)」というタイトルが附されています。
家族も、富も、栄光も、全てを手にしたセガンティーニですが、さらに高みを目指し、1894年、サヴォニンから約40km離れたエンガディン地方のマロヤに転居します。マロヤは標高1800mを超える高山地域でした。アルプスの画家としての筆致はさらに冴え渡るようになります。
この地でセガンティーニは畢生の大作「生命」「自然」「死」の三部作に取り掛かります。マロヤからさらに1000m高地のシャーフベルグ(標高2733m)までのぼり、ここに粗末な小屋を立てて制作を始めたのです。41歳になり、脂の乗り切っていたセガンティーニにとっては極寒の中の制作も至福の時間だったことでしょう。ある日、いつものように山小屋に入ったセガンティーニは、強い腹痛を感じていましたが我慢して制作をすすめます。しかし、それは盲腸炎で、熱中している間に腹膜炎を併発して取り返しのつかない病状になり、家人たちが発見したときには既に手遅れになっていました。
横たえられたセガンティーニは最後に「私の山が見たい」とつぶやいて絶命したと伝わります。
縷々つづってきたことですが、セガンティーニには(芸術家にはありがちなことですが)社会性が欠如した側面があり、標高3000メートルに迫る雪山で独り長時間キャンバスを立てて絵筆を執るというのは常軌を逸しています。その異常な情熱がセガンティーニの命を奪うことになったのです。マロヤに転居してからは、セガンティーニはグルビシーとの専属契約を解消し、別の複数の画商との契約に切り替えています。セガンティーニの売り込みや報酬の事務処理、スケジュール管理、社会の動向を伝達して需要のある作品作りを促すなど、グルビシーがいてこそ、非常識人のセガンティーニは画家として成功できたとも言え、もしシャーフベルグでの大作という困難なチャレンジに挑む際、傍にグルビシーがいれば、不慮の出来事の予防措置を講じたのではないかと思え、残念でなりません。
後編では、セガンティーニを特徴付ける唯一無二の幻想絵画にあらわれる象徴性の意味と、「白樺」誌上ではじめて日本に紹介されたセガンティーニがやがて日本詩壇に残るある名詩集を生み出すことになった経緯について、叙述したいと思います。
参照・資料
L'opera completa di Segantini (Classici dell'arte Rizzoli)
アルプスを描いた画家たち (近藤等 東京新聞出版局)
写真
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