毬杖の焚き上げが「さぎちゃう」として登場するのは、鎌倉時代末期から南北朝時代に著された『徒然草』(吉田兼好)です。
さぎちゃうは、正月に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)を、真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり。「法成就の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。(第百八十段)
足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)や鎌倉幕府滅亡直前に十日間だけ執権の地位についた北条貞顕など鎌倉武士と親交があった吉田兼好。
鎌倉末期から室町時代にかけて、武士たちの間で打毬が武芸の一環のレジャーとして正月などの楽しみとなり、また民間のどんど焼き(さぎちょう)を見習って、正月飾りや、遊戯や儀礼に使用したものをまとめて焼いたのかもしれません。その後、主に江戸時代ごろから、宮中での「御吉書三毬杖」が行われるようになったのです。
ですから、三毬杖が左義長(とんど焼き)になったのではなく、とんど焼きの風習がもとからあり、後に三毬杖がその影響を受けてはじまった、というほうが正しいのです。
「だけど左義長は三毬杖という名前から影響を受けてできた名前だろう」と言われるかもしれません。実はそこに問題の核心があるように思われます。
なぜ宮中の三毬杖では、毬杖(打毬のスティック)を三本組んで焚きあげるのでしょうか。その奇妙な風習について考察している資料はほとんど見られません。縁起ものの正月飾りや祭祀の道具、天皇の習字などを焼くことは理屈としてわかります。もし正月儀礼に使った武具・道具だからというのなら、「射礼」に使った弓矢こそ焚き上げにふさわしいようにも思います。
三本の毬杖は、何かに見立てられて燃やされたのではないでしょうか。だとするとそれは何か。そこにこそ小正月火祭りの、今では気づかれにくくなった古い精霊がかかわる深い意味があるのです。
後編でその謎解きを試みたいと思います。
(参考・参照)
新訂 徒然草 吉田兼好 岩波書店
遊戯から芸道へ:日本中世における芸能の変容 村戸弥生 玉川大学出版部
日本と世界の小正月行事「どんど焼き」調査データ一覧表野井区のどんど焼き茅原のトンド