初夏の田植え(農事はじめ)にやって来て、収穫期を終えると去ってゆくホトトギスは、「しでの田長(たおさ)」という名でも知られるごとく、農耕、つまり人にとっての食料調達というもっとも重要なミッションと重ねられ、農事の始めと終わりを告げる「時鳥」として捉えられていました。もちろん、ツバメやカッコウなどの夏鳥は同じような渡りの性質を持つ渡り鳥なのですが、ホトトギスの場合、盛んに鳴くのが夜明け時や夕暮れ時などの昼と夜の間(あわい)、「かわたれ時(彼は誰時)」「たそがれ(誰そ彼時)」ともいわれるトワイライトゾーンであるため、季節と季節、または生と死、彼岸と此岸、というふたつの世界の間に位置する鳥としてのイメージ仮託がなされたと考えられます。
古代より人類は、大地もしくは土を女性として捉え、大地の神(地母神)は常に女神でした。この女神に石や金属をくり返し打ち込む農耕は、それゆえに性行為のメタファーと捉えられました。男神である天空から、雷、あるいは雨が矢のように女神である大地に降り注ぐ自然現象は、男神と女神、陽と陰が交わる季節を告げ、人に農耕を促すサインだと考えられました。
そうしますと、「ほととぎす」の名の意味も見えてきます。「ほと」とは、「火処」「火戸」であり、そしてそのまま古語で女性器を意味します。
「とぎ」は「刀を研ぐ」の「とぎ」と同じであり、「突く」「着く」あるいは「貫く」も同語源です。「突き」は「時」「月」の意味も含みます。なぜなら「時」=暦とは、無限の時間の流れの一点を「突いて」限定し、「刻限」を作り出すことだからです。そして、毎夜かたちを変える月は時と暦の指標となったからです。日本神話の月の神である月夜見尊(つくよみのみこと)が、『日本書紀』の神代上第五段・一書第十一では、葦原中國に先住するという保食神(うけもちのかみ)のもとに赴いたツクヨミの物語が描かれます。保食神は、お米も、海の魚も、山の獣肉も、すべて口から出してツクヨミに捧げたため、ツクヨミは狼狽して激高し、剣を振るい殺してしまいます。
「穢(けがらわ)しきかな。鄙(いや)しきかな。寧(いづく)ぞ口より吐(ただ)れる物を以て、敢へて我に養(あ)ふべけむ。」とのたまひて、廼(すなは)ち剣を抜きて撃ち殺しつ。(中略)保食神、實に已(すで)に死(みまか)れり。唯(ただ)し其の神の頂に、牛馬化爲(な)る
有り。顙(ひたひ)の上に粟生れり。眉の上に蚕生れり。眼の中に稗(ひえ)生れり。腹の中に稲生れり。陰(ほと)に麥(むぎ)及び大小豆(まめあずき)生れり。
明らかに太地母神である保食神が死ぬと、そこから牛馬や蚕、そして穀物の数々が生じた、という神話は、いわゆるハイヌウェレ型神話の典型なのですが、ここでもあらわれるのは大地の象徴である女神を剣で貫くという農耕のシンボルです。そしてそれを行うのは月(突き・時)の神なのです。そしてこの神話での理不尽な殺害譚が、民話での「弟殺し」のトーンとも通じることは明らかです。
田植えの時期(時)を告げるように現れて夜明けに鳴き、収穫の頃には帰っていくホトトギスという鳥が、ホト(地母神の体=大地)を突け=農耕をはじめよ、と告げているというイメージ仮託こそが「ほととぎす」の太古の語源であり、これが時代が下るにつれ、神話から民話へと俗化される中で「弟殺した」「包丁かけた」などの聞きなしへと変化していったということなのではないでしょうか。
民話の中では、ホトトギスの花の赤紫の斑点は、鳴いて弟に詫びるホトトギスと化した兄の喉から吐かれた血であるという伝承もあります。
深い神話を秘めたホトトギス草が日本の特産で、月の美しいこの季節に花開くことも、もしかしたら神の差配なのではないか、とも思えてこないでしょうか。
(参考・参照)
時鳥と鶯について -民俗・言語学的一考察- 日置孝次郎
遠野物語 柳田國男 新潮社
ホトトギスの兄弟- 山形県の昔話 | 民話の部屋大和本草 巻7 - 国立国会図書館デジタルコレクション