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教え子の火葬「ああ無情無念」 全面火の海と化し如何(いかん)とも手の下しようなし…1945年6月17日鹿児島大空襲 「未曽有(みぞう)の被災」記した教務日誌

 「誰ガ教児ノ自ラナル火葬ヲ夢想セシコトアリヤ。噫(ああ)無情無念」。鹿児島女子高校(鹿児島市)で確認された市立女子興業学校時代の「教務日誌」には、1945(昭和20)年6月17日の鹿児島大空襲で被災した当時の様子が細かに記されている。犠牲となった教え子を火葬に付す教職員の苦しみなどもつづられている。

 空襲は夜間だった。17日付は当日書かれたものではないとみられるが、午後11時10分頃から「未曽有の大空襲あり」と記述。学校付近は「(焼夷弾など)数量甚大ナリキタメニ、発火モ早」。寄宿舎には防空要員として生徒54人が宿泊していた。

 18日付以降は生徒の安否確認をする教職員の業務が中心になる。生存判明や容体悪化と刻々と変化する状況が読み取れる。

 校長や教頭が猛火をくぐり抜けて駆けつけた時、学校は「全面火ノ海ト化シ如何(いかん)トモ手ノ下シヤウナシ」。火勢が静まり、夜明けを待って生徒らの安否確認が進められ、十数人が校内の待避壕(ごう)に避難していたが、焼夷弾の直撃を受けて重いやけどを負った者もいた。

 多くの生徒は避難したが、日誌は死傷者が出たことを「遺憾」と嘆いている。

 被災直後の教職員らは「罹(り)災生徒ノ父兄応接、負傷生徒ノ看護、行方不明生徒捜索等ヲ主ナル行事」(19日付)だった。犠牲となった生徒の保護者が来校し、遺骨を持ち帰る描写もある。亡くなった教え子の遺体が納骨できない状態だったため、改めて材木を集めて火葬した教員の苦悩も記されている。

 18日に学校本部を近くの第二鹿児島中学校(現・甲南高校、上之園町)に移転。校舎などが焼失したためと思われる。

 7月に入ると「校地ノ農場化ヲ急グ」(3日付)とあるように、復興作業が本格的に始まったようだ。教職員と生徒が、サツマイモの植え付けや追肥をした記述も散見される。4、5の両日付は、黒板1枚や裁縫台3脚の寄贈を受けたとも伝えている。

 終戦後の9月11日付は校庭に植えるサツマイモが「以前ヨリ相当盗マルル傾向ニアリ」と紹介。「少々収穫シ生徒へ分配セリ」と伝えており、当時の厳しい食糧事情も読み取れる。

 7月17日付に「長田町方面二爆弾攻撃ト機銃攻撃を受ク」との記述がある。市内の空襲被害をまとめる「鹿児島市戦災復興誌」には記述されていない。当時の実情に迫る新たな資料として日誌の活用が期待される。

 内容調査を進める市文化財課は、これから専門家らにも日誌を見てもらい、分析する予定。教職員や生徒の名前も多く記述されていることから「日誌の公表は現時点で未定」としている。


旧島津氏玉里邸長屋門の歴史資料室で見つかった「教務日誌」=鹿児島市の鹿児島女子高校




共研公園に建つ鹿児島市立女子興業学校跡の記念碑=15日、鹿児島市中央町



南日本新聞 373news.com

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