「幻魔大戦」は不人気でマガジンでの打ち切り後、平井、石ノ森双方がそれぞれに続編を執筆するという特異な経緯をたどり、ここで両者の世界観・価値観の違いが明確に現れます。平井が手塚治虫の「火の鳥」と同様、仏教的な「輪廻転生」とその因果の果てのスピリチュアルな戦いを主眼にしたのに対し、石ノ森は徹底的に輪廻というギミックを物語に据えることを拒みました。そのせいか、石ノ森の作品はオカルトや宗教めいたモチーフを扱ってもどこかドライな抑制が効いていて、清潔感や透明感があります。
予定調和的な「幼年期の終わり」を180度反転させて、「神」による未来を拒絶して戦いを挑むことになる「天使編」は、完全な完結を見ることなく中断し、『COM』での「神々との闘い編」へと形を変えて引き継がれますが、これも中途で座礁します。
こうしてサイボーグ009の世界は、果てしない自問の迷宮の中に入ってゆき、完結を見ないまま作者の死を迎えたのです。完結を目指した『conclusion GOD’S WAR』では、神々(異星人)との壮絶な戦いを通じて、ゼロゼロナンバーたちがエスパー・サイボーグなる「超人」に脱皮するという構想をしていたようです。「超人」とはいかなるものなのか。超人となったとき、009や003(フランソワーズ・アルヌール)のナイーブで澄んだ瞳や、感情を放棄したような004(アルベルト・ハインリヒ)の悲しげな白目は、明るい輝きを取り戻すことになったのでしょうか。
思えば、「サイボーグ009」と同様の混迷と、終わらないループに陥っているシリーズを私たちは知っています。今なお完結を見ず、平行世界のような物語が繰り返しリリースされ続けるアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」です。
この物語もまた、宇宙からやってくる不可解な神の「使徒」、神によって造形された巨人「アダム」をもとにしたサイボーグ「エヴァンゲリオン」と、同調(操作)して戦う少年少女たち、さらに彼らを操るマッドサイエンティストやAI、謎の組織の暗躍が描かれる終末論的な物語です。
なぜ「エヴァ」や「009」は完結できないのでしょうか。どれほどの天才の想像力の翼をもってしても、人知を超える存在であるはずの「神」の心理や行動原理を説得力を持って表現することは不可能に近いからではないでしょうか。安直で陳腐な結末や暗示や抽象的な逃げではなく、本当の最終決戦とその先の世界のありようを描ききることは、おそらく全てのクリエイターが憧れ、しかし到達し得ない彼方にあるのです。「サイボーグ009」が、終わらない(終われない)物語になるのは必然だった、ともいえます。
石ノ森は「サイボーグ009」を、「はじめてプロ意識を強く持って向き合った作品」と振り返っています。そしてそれ以降、そのノウハウとエッセンスを「仮面ライダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」などのヒーローもので生かし、ライダーシリーズと戦隊ものは、現代もなお続く特撮シリーズの絶対的フォーマットとなっています。
戦後に到来したテレビ時代に、石ノ森作品のヒーローが子供たち、若者たちにもたらした影響は計り知れない大きなものがありました。その原点にして、それを否定する思想をも内包する「混沌」の世界こそが「サイボーグ009」だといえます。
夏に向けてイベントの中止や自粛が続いている今年の夏、この世紀の問題作に、どっぷり浸ってみるよい機会ではないでしょうか。
参考・参照
石森プロ公式サイトサイボーグ009 石ノ森章太郎 秋田書店
虎よ、虎よ! (著)アルフレッド・ベスター、(翻訳)中田耕治 早川書房