これらのどこか病的な同人時代の作品は、文芸誌『作品』に発表された晩年の梶井の最高傑作「交尾」で、鮮烈で偏執的な観察対象への没入感覚はそのままに、客観性をあわせ持ち、読むものに心地よい感動を呼び起こす名文へと進化します。
芥川龍之介は人間が河童の世界へ行く小説を書いたが、河童の世界というものは案外近くにあるものだ。私は一度私の眼の下にいた一匹の河鹿から忽然としてそんな世界に入ってしまった。(中略)私はこの時の来るのを待っていた。すると、案の定、雄はその烈しい鳴き方をひたと鳴きやめたと思う間に、するすると石を下りて水を渡りはじめた。このときその可憐な風情ほど私を感動させたものはなかった。彼が水の上を雌に求め寄ってゆく、それは人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆け寄って行くときと少しも変わったことはない。「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳いで行くのである。こんな一心にも可憐な求愛があるものだろうか。それには私はすっかりあてられてしまったのである。
勿論彼は幸福に雌の足下へ到り着いた。それから彼らは交尾した。爽やかな清流のなかで。(中略)世にも美しいものを見た気持ちで、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声の中に没していた。(「交尾」)
この作品は、梶井がはじめて世に認められた作品で、これにより原稿料を手にし、原稿執筆の依頼も舞い込むことになりました。
しかし、「のんきな患者」を皮切りに、本格的な作家生活に入ろうというそのときには、梶井にはもう人生の時間が残されていませんでした。享年31歳。この後いよいよすごい作品が生み出されたであろうに、と思うと早すぎる死は残念でなりません。
レモンと並び、桜も梶井基次郎のシンボルといえます。桜の花が開花しはじめていますが、今年は花見宴会の自粛が要請されています。桜の樹の下でじっくりと花と向き合い、梶井作品を紐解く、そんな落ち着いた花見をするよい機会なのではないでしょうか。
梶井基次郎全集 筑摩書房
梶井基次郎墓