大都市文明の若者の感覚を鋭く描いたカミュが、次にその大都市文明がさいなまれることになる自然からの報復、つまり細菌によるパンデミックを描いて見せたというのは、まさに必然というほかありません。
ペストが流行し、「ロックダウン」されたオラン市。猛威を振るうペストに対し、孤軍奮闘する医師・リウー。金持ちたちの卑しいエゴイズム、ペストを神の懲罰だとふれまわる狂信的な神父、閉鎖された街を都合のいい隠れ場所と住み着く犯罪逃亡者、自分や仲間だけ町から脱出しようとする新聞記者、よそ者でありながらリウーの働きに心を動かされ、看護隊としてペストに立ち向かうことになる異邦人など、さまざまな人間模様が描かれ、孤独な個々人が「不条理(ペスト)」に対峙する中で次第に連帯していくさまが描かれます。
リウーの奮闘にも関わらず、仲間は次々と倒れていきます。絶望の中であがくリウー、そして人類はぺストに打ち勝てたのでしょうか。パンデミックは意外な成り行きで終息に向かいます。そしてリウーは述懐します。
市中から立ち上る喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦がつねに脅かされていることを思い出していた。 (中略) ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ちつづけていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。(『ペスト』)
人がひしめき、体裁と同調圧を押し付ける消費都市文明での個の抱える袋小路を描いたのが『異邦人』なら、その消費と浪費の行きつく果ての爛熟の中で突然襲ってくる災禍を描いたのが『ペスト』と言えます。
カミュ自身の理想像として位置づけられるリウー医師がペストとの闘いの中で仲間を得、連帯を得たのは、彼が個として不条理な現状に向き合い、戦うことに専心したからです。
個であることから逃げ、類(集団)に逃げ込んだ人の活動は、それがどれほど美しい目的を描いた計画であっても、早晩その目的達成のために、構成員を抑圧し、排除して、全体主義に陥るであろうということをカミュは予見していました。個(孤)であること、個のまま世界と対峙することによってのみ、世界は幸福と調和に向かって漸進し得ると考えていました。
私たちもまた、この二年にも渡るコロナ禍の中で、多くのリウー医師がいることを知りました。ふたたびカミュを読み解く時代がやってきたのかもしれません。
※写真クレジット
By Zanchi, Antonio - Mauritshuis, The Hague,Public Domain