被災地では、住み慣れた土地からの人口流出が復興を進めるうえで課題になっている。
これに、自治体として早く手を打ったのが宮城・岩沼市だった。
人口流出に歯止めをかけた“処方箋”とは。
2011年3月11日に発生した東日本大震災で、震度6弱を記録した宮城・岩沼市。
死者・行方不明者は187人にのぼった。
最大約11メートルに達した津波。
沿岸部の住民は市に対し、ある要望を行った。
住民代表「90%以上の住民があそこに住みたくないと」、「間違いなく99%(今の場所に家を)建てるつもりはない」
住民の要望は、一時的な避難ではなく、永住を前提とした集団移転だった。
被災者「どうなるんだろうとすごく不安だった。涙が出るくらいほっとした。先に少し明るさが見えたかなと」
震災から約1年半後に岩沼市は、被災地として初めて集団移転先の造成工事をスタート。
町作りのポイントの1つは、いかに人口流出を抑えるか。
海岸から約3km地点にある玉浦西と三軒茶屋の両地区が、生活の拠点となった。
2015年9月に集団移転が完了した地区では、被災世帯それぞれの状況に応じて、新しい住居が建てられたほか、公営住宅も整備された。
さらに、子どものいる若い世代を呼び込もうと、全面芝生の公園や事故防止のため、車の速度が上がらないよう直線を減らした道路など住民のアイデアがちりばめられた。
緑が並んだ景観にも住民の思いがあった。
この地方では、居久根と呼ばれる江戸時代以降からある防風林がそれぞれの家を囲んでいるため、その面影を残したいという思いが形になった。
大型の商業施設も誘致、利便性も高めた。
買い物客「集団移転地にこういう大きな店は助かる」
市によると、被害のあった沿岸部の6地区471世帯のうち、震災後市外に転出したのは40世帯。
集団移転で、人口流出に一定の歯止めがかかったとみられている。
集団移転のトップランナーと呼ばれてきた岩沼市。
ほかの被災地より早く進められたことについて住民は...。
玉浦西まちづくり住民協議会会長・森博さん「(28回)会合を積み重ねてお互い理解するところは理解して、今になって考えてみると、イライラして言いたいことを言ってやってきたということが、行政も考えてくれてこういうふうに良い方向に結びついてきた」
行政と被災者との対話の積み重ねが、集団移転を前進させた大きな原動力になったという。
岩沼市・佐藤淳一市長「行政と住民のみなさんがしっかりと対話をして、コミュニティーを維持していくためにはどうしたらいいのか、すべての皆さんに協力していただいたというのが一番大きなポイント」
こうした中、岩沼市は、集団移転した地区でコミュニティーづくりなどを支援する事業を2023年度で終了することを決め、1つの節目を迎えることになった。
玉浦西まちづくり住民協議会会長・森博さん「思い出すと胸がいっぱいでしゃべれない。支援事業がなかったら、わたしたちも立ち上がってこられなかった」
集団移転した住民「隣近所のみんなと一緒に提供された場所に住んだ方が安心かなと思った」、「集団で知っている人が移転するということはいいことだと思う」
震災後の大きな課題を克服した岩沼市。
岩沼市・佐藤淳一市長「住み慣れたふるさとを離れるというのはすごく大変なこと。集団移転を進めるのは、今後100年200年先の地域を考えるうえで有効な手だて」
能登半島地震では、輪島市など石川県内の6つの市や町で、これまでに1400人を超える住民が別の自治体に転出。
復興を前進させるため、被災者の生活をどう支えるのか大きな課題の1つとなっている。