京都では倒幕派、わけても長州藩に打撃を与え、幕府の長州征伐を援けた新選組ですが、対立してきた薩摩藩と長州藩が薩長連合を結び、第二次長州征伐が幕府の敗北に終わり、十四代将軍家茂の死去、公武合体派の孝明天皇の突然の崩御(一説では暗殺とも言われています)、尊皇派の十五代将軍徳川慶喜就任などで慶応二(1866)年にはすっかり様相が一変してしまいました。
慶応三(1867)年の大政奉還の後、岩倉具視らの暗躍により旧幕府方が裏切ったとの報が流れて、戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦いでは新選組は会津藩、桑名藩とともに、次々と幕府方が薩長側に寝返っていく中(当の慶喜自身が大阪から江戸に逃げてしまいます)旧幕府方として戦います。切り込み奮闘を続けながらも敗走を続け、遂に明治元(1868)年、新選組局長、近藤勇は流山で捕縛され、板橋で斬首となります。
「義を取り生を捨るは吾尊ぶところ 快く受けん電光三尺の剣 只将(ただまさ)に君恩に報いん」(義を通して死ぬのは自分の望むところである。快く剣を受けよう。死をもって主君に受けた恩に報いよう)
と辞世の句を残し落命しました。江戸城無血開城のわずか一週間前のことでした。
くだらない刃傷沙汰や内ゲバともいえる身内同士の殺し合いなど、多くの汚名も残る新選組ですが、得なほう、勝ったほうにほとんどの者がつき、信念に殉じる者は稀有なのはいつの時代も同じ。その意味で、幕末の血まみれの動乱の中で、新選組の放ったわずか数年の閃光は、隊旗の「誠」の一文字に恥じない生き様だったからこそ、今もなお多くの人の憧れと共感をひきつけてやまないのでしょう。
参考文献
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書/佐々木克)
歴史人-新選組の真実 (KKベストセラーズ)
陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前