平易な文体で内容もわかりやすい詩です。高校を卒業して社会人になりたての十代のOLなのでしょうか。でも、彼女の机には花瓶の花が置いてあり、鏡に映った自分を「かがみの奥にゐ」る、という描写などからは何か不穏な怖さも感じます。幽霊?または春を呼ぶ精霊?なんて深読みもしてしまいそうな、少女の希薄な、はかなげな存在感。
社会の荒波に放り出されて不安げな少女を朝陽が一瞬で包むような最後の描写が、筆者は好きです。
「菜の花忌」にこめられた秘話とは
萩原朔太郎は詩誌「コギト」に寄稿し、伊東静雄を「久しく失われていた真の抒情詩人」と絶賛します。
ひさしく抒情詩が失はれてゐた。これは悲しい事実であった。
詩といふものはあった。それは活字によって印刷され、植字工によってメカニカルに配列されたところの一つの工業図案的な絵文字だった。人々は詩を玩具にした。魂が詩を「歌ふ」のではなく、機知が詩を「工作する」のであった。
(中略)
雑誌「コギト」の誌上に於て、伊東静雄君の詩を始めて見た時、僕はこの「失はれたリリシズム」を発見し、日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い喜びと希望をおぼえた。これこそ、真に「心の歌」を持ってるところの、真の本質的な抒情詩人であった。(萩原朔太郎「わがひとに與ふる哀歌~伊東静雄君の詩について」)
これに反発したのは、萩原朔太郎の第一弟子のポジションを自他ともに認めていた三好達治でした。ひとかどの抒情詩人として作品を発表してきた自負もある三好にとっては、「伊東静雄以外抒情詩人はいない。」と師匠に断言されては、面白いわけがありませんよね。折りしも伊東静雄の出版記念の祝宴で、三好は伊東の詩を難解すぎること、強引な語法や語彙であることなど欠点を指摘します。実はこれは、暗に朔太郎の新詩集「氷島」に対する批判もこめられていました。朔太郎にもそれは分かっていましたから、祝宴の席で朔太郎vs達治のバチバチの論争が勃発することになります。後々まで語られる昭和詩壇の一事件でした。
それ以降、「四季」などを通じての同人仲間ではあっても、三好は長く伊東の詩を認めようとしなかった、といわれます。しかし、1949(昭和24)年以来患い続けた結核がいよいよ重くなってきたことを知ると、富士正晴、桑原武夫らとともに伊東静雄の詩業を網羅した全集出版に奔走したのは三好達治でした。全集の出版は、1953(昭和28)年昭和28年3月12日の伊東の死後、四ヶ月ほど経った七月のことでした。その翌年昭和29年には、故郷諫早の有志が詩碑の建立計画を立ち上げ、これにも三好は賛助者として名を連ねます。詩碑に刻まれる銘文は、伊東の「そんなに凝視るな」からの一節が選ばれます。
手にふるる 野花はそれをつみ
花とみずからをささへつつ
歩みをはこべ
この詩句の銘文は、何と三好自身が直筆書写し、これを写し取って刻まれました。確執があったかのように語られることもある三好と伊東ですが、伊東は「難解すぎる」という三好の指摘を受け入れて後に平明な詩作を心がけるようになったといいますし、三好も萩原朔太郎に認められた伊東の才能と感性に、強い尊敬の気持ちを秘かにもっていたようです。
「菜の花忌」として三月の最後の日曜日に追悼がおこなわれるようになったのは昭和40年の13回忌からで、つつじの名所として知られる諫早公園の詩碑の前に、菜の花とビールがささげられます。
第34回(1999年)の菜の花忌には、同じ忌日名をもつ故・司馬遼太郎夫人から、「同じ野花を愛された詩人の魂にこの花をささげます。」とメッセージが届けられたそうです。春を先取りするような暖かいエピソードです。
早春賦伊東静雄詩集 (現代詩文庫 思潮社)