しかし昭和16(1941)年、状況は一変します。日米戦争の開戦で、大陸と日本本土の輸送経路は次第に制約され、明太子事業は急速に先細りとなっていきます。戦争末期には、もはや明太子どころではなく、樋口伊都羽もなすすべがなく、昭和20(1945)年には日本本土への引揚げと同時に明太子事業からは手を引いてしまいました。
戦後、韓国からの引揚者の中に、釜山で生まれ育った川原俊夫氏がいました。川原は入植が始まったばかりの博多中洲に昭和23(1948)年食料品店「ふくや」を構え、商売を始めます。今のような繁華な場所ではなかったため何とか生き残るために試行錯誤するうちに、生まれ育った釜山で食べていた明卵漬(ミンランギョ)、つまりは樋口商店のヒット商品・辛子明太子を自分なりに自作して売り出してみようと考えたと言われます。
「ふくや」創業者・川原俊夫夫人でともに店を支えた千鶴子氏は、ふくや社長時代のインタビューで、「私は釜山のタラコの味が忘れられませんから、あれをとりよせればきっと評判になると思って。主人に手をまわしてもらって韓国から仕入れたのです。ところがそれが全然舌に合いません。私たちがなじんでいた明太子は日本人向けにつくられていたんですね。そんなら自分でつくろうと思いましてね。」(※
「明太子」誕生物語りより引用転載)
と述べています。千鶴子氏によれば、この試作明太子が初めて「ふくや」の店頭に並んだのが、昭和24(1949)年の1月10日であり(ただし証言者により諸説あり)、「明太子の日」として記念日となっているのです。韓国伝統の「タラコのキムチ漬け」と、日本人入植者が戦前釜山で食べていた「明太子」が別物であったこと、しかもそれをそうとは知らなかった(韓国にもともとある味だと思い込んでいた)ことなどが分かり、入植地の日本人の生活史としても非常に面白い部分です。
そしてまた、博多の元祖明太子は、戦前に樋口商店を筆頭とした明太子製造卸業者が釜山を中心に製造し、日本で販路を広げた明太子の味をもとにして再現されたものだったことも分かります。戦禍で一度失われたはずの明太子は、博多中洲の「ふくや」で再度命を得て復活した、といえるでしょう。「ふくや」が製法を惜しみなく仲間に教えたこともあり、博多では相次いで明太子製造会社が登場。さらに山陽新幹線の博多への乗り入れ(昭和50(1975)年)により、瞬く間に全国に広がったのです。