日本で気象観測が始まったのは明治8(1875)年6月1日、東京気象台が港区虎ノ門(現在のホテルオークラのあたり)に設置されてからです。地震観測と1日3回の気象観測が始められました。
明治維新から10年足らずでこれだけのことが実現できたのは、明治政府が掲げた「富国強兵」と「殖産興業」の一環としてヨーロッパやアメリカから来た多くの外国人の技術者の力があるようです。
気象観測の必要性を進言したのは、明治3(1870)年から鉄道敷設のために来日していたイギリス人ジョイネルでした。これを機に明治政府は気象台設置に向け、新たに技術者シャーボーを雇い入れます。シャーボーは日本が地震の多い国と知り、測量基準点が移動しては正しい測量ができないとイタリア製の地震計をも調達して来日したのです。だから気象観測の始まりが地震観測だったのですね。
気象観測が始まるとジョイネルの下に日本人5人の伝習生が配置され観測技術の習得が行われました。明治10(1877)年にジョイネルが任期を終え帰国した後は日本人に受け継がれていきました。
もうひとり天気図の作成に功績のあったドイツ人のクニッピングがいます。観測情報の収集を役立たせるためには天気図が必要でした。全国から午前6時の気象情報を毎日集められるようになった明治16(1883)年2月16日、先ず試しとして天気図が作られました。すると翌月の3月1日にはもう毎日の天気図が印刷配布されるようになったのです。早くも5月26日には初の暴風警報を発表できるようにもなりました。東京気象台が設置されて8年、気象観測は長足の進歩を遂げ、翌明治17(1884)年の天気予報発表に至りました。
明治20年、東京気象台は中央気象台と名を改め、昭和31(1956)年に気象庁となりました。現在は国土交通省の外局に位置しています。
ジョイネルやシャーボー、クニッピングといった外国人技術者は、建築家のジョサイア・コンドルや教師として来日しそのまま日本で生涯を終えたラフカディオ・ハーンのような名声を得ることはありませんでしたが、彼らのような人々こそ日本の近代化に貢献したのだと改めて感じます。
参考:
気象庁ホームページ気象庁の歴史