
多くの人に衝撃を与えた埼玉県八潮市の道路陥没事故。
この事故は特殊な事例ではなく、むしろ「点検したはずなのに事故は起きた」といった、点検などの制度が機能していたにもかかわらず起きてしまったことだという。
水ジャーナリスト・橋本淳司さんの著書『あなたの街の上下水道が危ない!』(扶桑社)から、下水道管が直面する複合的な課題と八潮の事故を通してみる足元のリスクを一部抜粋・再編集して紹介する。
制度的対応とその限界
下水道管発の事故を防ぐには、地下で起きている「静かな変化」をいかに早く察知できるかにかかっています。そのための制度的な対応として、2015年に下水道法が改正されたのは前述の通りです。
しかし、点検基準が整備されることと、それを着実に運用できるかは別の問題です。
全国にはおよそ49万キロメートルに及ぶ下水道管が埋設されており、2040年代には、建設から50年を超える老朽管が約40%に達するという見通しの中、点検の対象とすべき区間は今後さらに増えていくことになります。
加えて、腐食や老朽化だけでなく、軟弱地盤や埋設物の密集、気候変動による急激な雨量の変化といった複合的リスクも加わりつつあります。
点検対象の選定には、耐用年数だけでなく、「事故が起きた際の影響の大きさ」「地下構造の複雑さ」「地盤の脆弱性」「気象の変動傾向」など、より広範な視点が求められています。結果として、点検対象は今後ますます多様化・拡大していくでしょう。
しかし、その一方で、点検を担う自治体や現場の体制はどうかというと、決して万全とはいえません。
多くの自治体では、技術職員の高齢化や定員削減の影響により、専門的な知見を持つ職員が不足しています。点検は多くの作業工程を必要とし、カメラ調査やデータ分析、評価報告に加えて、必要に応じた補修計画の立案・予算化が求められます。
とくに中小規模の自治体では、これらを同時にこなす余力がなく、外部委託に頼らざるを得ない場面も増えています。
制度の厳格化は紙一重
財政面の課題も深刻です。点検には1メートル当たり数千円〜数万円の費用がかかることもあり、対象区間が拡大するほど、自治体の年間予算への圧迫が強まります。
点検結果が「Ⅰ=速やかな対応が必要」となった場合には、即時の補修工事が求められますが、実際には翌年度まで予算化できず、対応が後手に回る例も少なくありません。
制度が整えば安心とは限らないのです。むしろ制度の厳格化は、現場の負担増と紙一重です。
点検頻度が増えることで、インフラの安全性が高まるのは間違いありません。しかしそれは、膨大な作業負担と財源確保の責任を、各自治体が引き受け続けるということでもあります。もしこの負担を支えきれなければ、制度は形式的に整っていても、実質的には機能不全に陥る危険すらあります。
「点検したはずなのに、事故は起きた」
八潮の事故は、その象徴でした。制度はあっても、すべてを見通すことはできない。リスクは、制度の隙間をぬって静かに忍び寄ってきます。
だからこそ今問われているのは、制度の強化そのものではなく、その強化を誰がどこまで支えられるのかという、インフラ管理の持続性の問題なのです。
八潮は未来の予兆だったのか
事故発生は突然に見えて、実は時間をかけて進行していた──。八潮市で起きた下水道の陥没事故は、まさにそうした性質のものでした。管路そのものは、法定耐用年数である50年には達していませんでした。
定められた制度に沿って点検も行われており、評価は「Ⅱ(中度)」──すぐに補修が必要とされる状態ではなかったのです。それでも、地中では腐食が進行し、地盤との相互作用によって土砂が流れ込み、ある日突然、大きな穴として地表に現れました。
これは、下水道事故の新しい位相(いそう)を象徴しています。単に「老朽化していたから」ではなく、制度の対象から漏れがちな複合的なリスクが重なった結果として、事故は起きたのです。そしてこの構図は、決して八潮市だけの特殊事例ではありません。
都市の地下には、いまも数十万キロに及ぶ下水道管が張り巡らされ、その多くは高度経済成長期以降に整備されたものです。地上の風景は変わっても、地中のインフラは更新の機会を得られないまま、少しずつ劣化を進めています。
地盤が弱く、気候が変動し、地下が複雑化する中で、事故の条件は全国各地で静かに積み上がりつつあります。制度は整備されつつあります。点検の頻度も、判断基準も、以前よりは明確になってきました。
“足りない”状態が各地で
けれども、整備された制度がすべてをカバーできるわけではありません。人手が足りない、予算がつかない、情報が足りない──そうした理由で「わかっていてもできない」状態が、各地に広がっています。
八潮で起きたことは、むしろ制度がきちんと機能しているとされた地域で起きた事故でした。その意味で、この出来事は私たちに問いを突きつけています。
制度は、どこまで私たちの暮らしを守れるのか。制度に「頼る」だけでなく、自らの足元に潜むリスクを「見つめる」覚悟が、いま必要なのではないか──と。
八潮は未来の予兆だったのか。それとも、まだ選び直せる岐路なのか。この問いにどう向き合うかが、これからの下水道行政と都市インフラの在り方を左右していくはずです。
こうした地下のインフラが劣化し続ける一方で、その管理や整備の枠組みそのものにも、大きな盲点が存在しています。とくに、1つの自治体では対応しきれない規模で構築されてきた「流域下水道」は、その典型例と言えるかもしれません。
橋本淳司
1967年群馬県生まれ。アクアスフィア・水教育研究所代表、武蔵野大学工学部サステナビリティ学科客員教授。著書に『水辺のワンダー~世界を歩いて未来を考えた』(文研出版)、『水道民営化で水はどうなる』(岩波書店)、『67億人の水』(日本経済新聞出版社)、『日本の地下水が危ない』(幻冬舎新書)、『100年後の水を守る~水ジャーナリストの20年』(文研出版)、『2040 水の未来予測』(産業編集センター)など多数