
東日本大震災で最愛の家族を亡くした後、ともに支え合って14年余りを歩み、今それぞれに新たな挑戦を始めている父と娘を取材しました。
岩手県陸前高田市に5年前設立された食肉加工会社「KーFoods」。
経営者の高橋一成さん(58)は、若いころハムを作る会社に勤務した経験を生かし、この会社を立ち上げました。
設立の一番の理由は家族と一緒に何かを築きたいとの思いでした。
高橋一成さん
「家に戻って同じ共通の話題で相談し合えるのがコミュニケーションのきっかけにもなっている」
5人いる子どものうち2人がこの会社で働いています。
末っ子の伶奈さん(24)は、通信販売用のサイトの制作やラベルのデザインなどを担当しています。
高橋伶奈さん
「お父さんがずっとやりたかったこと、私が少しでも応援できたら」
今、力を合わせて食肉加工の仕事に取り組む父と娘は、あの日大切な人を亡くしていました。
高橋一成さん
「警察から電話があって、指輪の刻印が一致する遺体が見つかったと」
一成さんの妻で伶奈さんの母である貴子さん(当時46)は、東日本大震災の津波で犠牲となりました。
貴子さんはどんな時も家族との時間を大切にする人だったといいます。
高橋一成さん
「弁当作って山に行ってご飯食べたり、とにかく家族みんなでどこか出かけたりということが好きだった」
突然の別れに家族は深い悲しみに暮れました。
震災当時小学3年生だった伶奈さんは、感情を表に出せなくなり心のバランスを崩していきました。
高橋伶奈さん
「周りからずっと言われ続ける、『お母さんが亡くなって悲しいでしょ』って。私たちの時間の何を分かって悲しいと言っているんだと」
怜奈さんは感情を閉じ込めてしまったことで中学生になったころ学校に行けなくなりました。
そんな怜奈さんを一成さんは無理に学校に戻そうとはせず、地元の海や山など豊かな自然の中に少しずつ連れ出し、ともに時間を過ごすようにしていました。
高橋一成さん
「やりたいこと・好きなことを少しでも学べる機会があったら、自分らしく伶奈がいられるんじゃないかと」
そんな2人にとって特別な場所があります。陸前高田市立博物館です。
津波で被災した後、2022年に再建されたこの博物館に、2人は足しげく通っていました。
この場所には、もともと生き物が好きだった一成さんが、震災後、伶奈さんと共に自然の中で見つけた昆虫や貝の標本が展示されています。
高橋さんは「この辺やこの辺は私が作った標本」と説明します。
震災で失ったものではなく、震災後も“変わらずにあるもの”に目を向けてほしい。そんな一成さんの思いは伶奈さんに変化をもたらしました。
高橋一成さん
「震災はあったとはいえ、山に行けば生き物がいて、海に行けばやっぱり変わらず魚とか貝とか生き物がいる」
高橋伶奈さん
「動きたくても動けないみたいな状況がある中で色々なことを教えてくれて、やっと私も自然な状態になれた」
伶奈さんの心に変化が現れる中で、一成さん自身も新たな一歩を踏み出しました。
震災から5年後、それまで勤めていた市役所を退職しました。
そして2020年に食肉加工の会社「K-Foods」を立ち上げたのです。
様々な商品があるうち、大槌町の鹿肉を使ったジャーキーは、ふるさと納税のサイトが主催するコンクールで銀賞を受賞しています。
伶奈さんは今、一成さんの新たな夢を支える立場となっています。
高橋伶奈さん
「デザインももうちょっとこうした方が良いといった話をしていて、今まではお父さんに色々やってもらう立場だったのが対等に仕事ができている」
一方で伶奈さんはほかにも新たな歩みを進めています。
仙台市にある団体に所属し、心の傷を抱える子どもたちの相談に乗ったり、オンラインで勉強を教えたりといった支援活動を始めたのです。
高橋伶奈さん
「震災当時も色々なボランティアの方たちが私たちを支えてくれた。私は同じ痛みを抱えている子どもたちに対して何か言えることがあるんじゃないかと」
大切な家族を奪われたことによる強い喪失感。
それに向き合う中で絆を深めていった親子は今、明るい未来を見据えています。
高橋伶奈さん
「(家族で)助け合いながら生活が今後もできればいい」
高橋一成さん
「(妻は)応援してくれていると思う。最終的には家族全員が安心して暮らせる状況をつくることが大事。そこに向けて今は頑張りたい」
震災から15年目、一成さんと伶奈さんは今も亡くなった貴子さんを思いながら、一歩一歩歩みを進めています。