この「百人一首」のコラムで第2回目(
百人一首には順番があった?)に、選ばれた和歌には順序が決められていること、初めの二首が天智天皇親子、最後の2首が後鳥羽院親子で、前者を明とするなら、後者は暗とも言える対照があるとも申しました。
こうした天皇と院の歌は「百人一首」の中に、他に天皇一人(光孝天皇)、院三人(陽成院·三条院·崇徳院)の歌があります。そして天皇と院の明と暗は、これら4人にも共通するように思えます。つまり、陽成院以下の三人の院には、それぞれ暗と評するに相当することがあります。その視点で、陽成院についてみて行きましょう。
陽成院は、元慶元年(877)正月に10歳で父・清和天皇を継いで即位しますが、同八年(884)2月に17歳にして、天皇自身が病のために譲位の意志を表したと歴史書『三代実録』には記されています。しかし、実は病ではなく、太政大臣の藤原基経によって退位を迫られたとも言われています。その理由になりそうな行動の多くが記録されていますが、中でも最も重大な事件は、同書に見える譲位の前年11月10日の記事で、陽成天皇の乳母子が宮中の殿上で「格殺(手で打ち殺す)」されたというものです。記事には何の説明もありませんが、陽成天皇がしたことと理解されます。同月16日には、天皇が馬を好んで宮中でこっそり飼っていたとあり、天皇には不法なことを煽動する取り巻きとも言うべき者達がいて、太政大臣が彼らを駆逐したとあります。時期的に見れば、この一連から、ほかに書かれていないことを含めて陽成院が天皇に相応しくないと退位を迫られたとするのは説得力があるように思われます。
ほかにも、陽成院の天皇という立場に相応しくない行為はいくつも知られています。以下に、陽成院の二代後の宇多天皇治世での記録「宇多天皇御記」に引用されている、平安末期編纂の歴史書「扶桑略記」から寛平元年(889)の記事を挙げてみましょう。