三島由紀夫の生と死、悠久の時を越えた美少年との出会い
2016年11月25日
パルテノン神殿(ギリシア)
今もさまざまな議論が絶えない「三島事件」。互いに尊敬し合い、親しい友人でもあった澁澤龍彦の弔辞から、三島由紀夫の生と死に思いを馳せてみましょう。
戦後日本を代表する人気作家が遂げた、衝撃の最期
三島由紀夫(1956年 31歳)
満年齢と昭和の年号が一致する出生であることから、20歳で終戦を迎え戦前・戦後に引き裂かれた激動する日本に生きた天才は、なぜこのような死を選んだのでしょうか。
澁澤龍彥による弔辞と『アポロの杯』
「三島氏は、自分の惹き起こした事件が社会に是認されることも、また自分の行為がひとびとに理解されることも二つながらに求めてはいなかったにちがいない。あえていえば、氏の行為は氏一個の個人的な絶望の表現であり、個人的な快楽だったのだ。」
「私は亡くなったばかりの三島由紀夫氏の秘密の内面に、やくざな分析家の泥足を踏み込ませているのだろうか。そうは思わない。なぜなら、氏にとって、内面などはどうでもよかったにちがいないからである。そんなものは、もともと他人に勝手に分析させておけばよいものだった。「希臘(ギリシア)人は外面を信じた。それは偉大な思想である」(『アポロの杯』)と氏自身が書いている。最後まで形をなして残るものは、作品だけだからである。そして氏は、みずからの肉体、みずからの死をも、傍若無人な一個の作品たらしめたのである。」(『三島由紀夫おぼえがき』)
弔辞の文中にある『アポロの杯』は、三島由紀夫が26歳から約4カ月半にわたる世界一周旅行の見聞録。この旅は三島の初の海外旅行で、特に“眷恋(けんれん)の地”であったギリシアへの旅は「自己改造」の契機となり、三島のひとつの転換点と位置付けられています。
17歳から26歳までの文学的遍歴や作家としての歩みを、38歳の時点で振り返った随筆『私の遍歴時代』よると、「私に余分なものといえば、明らかに感受性であり、私に欠けているものといえば、何か肉体的な存在感ともいうべきものだった。」とあります。「一個の彫像のように、肉体的存在感を持った知性しか認めず、そういうものしか欲しいと思わなかった。」
おぼっちゃん育ちで病弱だった少年時代の三島のあだ名は「アオジロ」。帰国後程なくしてボディビルをはじめ肉体を鍛え上げた三島は、その「遍歴時代」に訣別することになります。『アポロの杯』は、まさに三島の遍歴時代の終わり告げる旅の記録なのです。同時にそれは、三島由紀夫の「みずからの肉体、みずからの死をも、傍若無人な一個の作品たらし」める出発点だったともいえるもかもしれません。
海を越えて三島が出会った、運命の美少年とは?
アンティノウス胸像(ヴィッラ・アドリアーノ)
「子供のころ、三時にいろいろなお菓子を出されると、その中でいちばん好きなお菓子の味が、いつまでも口のなかに残るように、それをおしまいまでとっておく癖が私にはあったが、三日目の今日なおヴァチカン美術館を訪れていないのはこの理由に拠る。」(『アポロの杯』)
子供のような気持ちで楽しみにしていたヴァチカンで、三島は「アンティノウス」に出会います。この旅で、自らの肉体を改造する決意の強い動機となったのが、ヴァチカン美術館で見たこのアンティノウス像だったといわれています。
アンティノウス(111年11月29日頃 〜 130年10月30日)は、ローマ皇帝ハドリアヌスの寵愛を受けた美少年。18歳頃にナイル川に身を投げて溺死しましたが、その理由などは謎に包まれています。その死を嘆き悲しんだハドリアヌス帝により神格化されたことから多数の芸術作品に表現され、その美しさは悠久の時を経てヨーロッパ各地の美術館などで観ることができます。
ヴァチカン美術館で、すっかりアンティノウスに魅了された三島は、他のさまざまな名画を見ても、心はアンティノウスのほうに行っているので、ヴァチカンの見物は甚だ収穫の乏しいものに終わってしまった、と書いています。
アンティノウスの魅力は、なんといってもその憂いを帯びた表情。どんな英雄の装いでも、酒の神バッカスに扮しても、どこかに哀愁が漂っているのです。その運命を予感するかのように…。完璧な肉体に宿るはかなさ。三島の心を鷲掴みにしたのは、このあたりだったのかもしません。
イタリアを発つ最終日に、再度ヴァチカンを訪れた三島。それは、アンティノウスに別れを告げるためでした。
「私は今日、日本へかえる。さようなら、アンティノウスよ、われらの姿は精神に蝕まれ、すでに年老いて、君の絶美の姿に似るべくもないが、ねがわくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを。」
アンティノウス バッカス像(ヴァチカン美術館)
「氏にとって、内面などはどうでもよかったにちがいないからである。そんなものは、もともと他人に勝手に分析させておけばよいものだった。(中略)最後まで形をなして残るものは、作品だけだからである。そして氏は、みずからの肉体、みずからの死をも、傍若無人な一個の作品たらしめたのである。」
天才といわれた作家の複雑に絡み合う「内面」の核心にあえてふれていないのは、誰よりも三島を理解していたからなのでしょう。アンティノウスの死の謎のように、三島の死も悠久の歴史のなかで神話として語り継がれる時が、いつの日かくるのかもしれません。
三島由紀夫 『アポロの杯』 新潮文庫 1982
三島由紀夫 『私の遍歴時代―三島由紀夫のエッセイ〈1〉』 ちくま文庫 1995
渋澤龍彦 『三島由紀夫おぼえがき』 中公文庫1986