戦後日本のグラフィック・デザインを牽引した男、亀倉雄策のデザイン力と人間力

1964年に開催された東京オリンピックの聖火台(国立競技場。現在は取り外されています)
「エンブレム問題」に揺れた2020年に開催される東京オリンピック。その騒ぎのなか、前回の東京オリンピック・エンブレムを再度利用しようという声があがりました。あらためて注目が集まったのが、名作といわれる1964年の東京オリンピック・ポスターを手がけた亀倉雄策です。デザイン界の先駆者であり、生涯現役で国家事業や経済界にも影響を与えた彼の作品と言葉を通して、「デザインが持つ力」を探ってみましょう。
「社長以外とは口をきかない」。異次元の人間力で組織の壁を突破!経営理念の本質に迫る

大物政治家の風貌!? 『亀倉雄策』DNPグラフィックデザイン・アーカイブ 2006
彼が10代で仕事をはじめた1930年代当時のグラフィック・デザインは、「図案」と呼ばれ単なる装飾の一部に過ぎない扱いでした。そのことに疑問を投げかけ、「デザイン」という概念を社会に定着させることが亀倉の生涯をかけた仕事となりました。
「国家運営や企業経営とデザインは一体であるべき」という姿勢は、常に経済界のトップと直接対話し、理念や経営ビジョンを共有してデザインに表出させるという亀倉ならではのスタイルを確立しました。グラフィック・デザイナーという職業が認知されていない時代にも関わらず「社長以外とは口をきかない」という彼のスタンスは、立ちはだかる組織の壁を徐々に取りはらい、社会におけるデザイナーの地位向上にも貢献することになるのです。
「日本を強く印象づけること。」日の丸と五輪マークを大胆に配した、1964年東京オリンピックのシンボルマーク

1964年の東京オリンピック・シンボルマークは圧倒的迫力!『名作の100年 グラフィックの天才たち。』
1960年、東京オリンピック開催に際して「日本的なものを加味した国際性のあるもの」という理念のもと、シンボルマークの選定が行われます。当時の著名なデザイナー6人による指名コンペの結果、選ばれたのが亀倉の作品でした。「日の丸」や「太陽」を連想させるデザインは、シンプルながらも力強いメッセージ性が備わっていると絶賛されることなります。
彼は当時を振り返って、「日の丸」を選んだ理由についてこのように語っています。
「オリンピックというのは国際的な行事であるが、開催地は日本である。東京である。そこでこのシンボルを作る思想として、日本を強く印象づけること。」
「では、その日本とはなにかという問題にぶつかる。富士山だと思う人。桜の花と思う人。舞扇だと思う人。なかには鳥居だと思う人さえいるのだ。」
「私は少しも迷わず日の丸を選んだ。日の丸の赤が日本だと思ったからである。その赤は昇る太陽を象徴していると思ったからである。」(以上、『曲線と直線の宇宙』より)
国のビジョンや人々の思いを、デザインの力によって力強く結実すること。高度経済成長只中にあった日本の時代性を的確にとらえた1964年の東京オリンピック・シンボルマークは、亀倉の代表作となり現在も語り継がれることになるのです。
「私は自分の”手”で作ったという実態以外のものは、自分の作品だとはいわないのだ。」生涯現役!デザインを愛した亀倉雄策からのメッセージ
「白地に赤い円が描かれているだけで、時にそれは国家を指し、太陽を指し、戦争などで用いられる時には血のイメージとなる。現代の私たちが見たら、平和の象徴と見えるかもしれない。しかし、図像そのものには意味なんてありません。静止した簡素簡潔で抽象化された図像の上には、いろんな人の思いを乗せることができる。それが、シンボルマークがもつ原初的な力なのだと思います。」(『名作の100年 グラフィックの天才たち。』より)
簡潔だからこそ、多くの人が思いを乗せることできる。それは、亀倉が手がけた東京オリンピックのポスターをはじめ、60年もの歳月を経た1957年のデザインとは思えないグッドデザイン・シンボルマーク、NTTをはじめ現在も使用されている企業のロゴマークにもいえることです。
13歳でフランスのグラフィック・デザイナーであるカッサンドルのポスターに衝撃を受け、この道を志した亀倉は、デザイナーという仕事を誰よりも愛し82歳まで現役として活躍しました。
「私は自分の”手”で作ったという実態以外のものは、自分の作品だとはいわないのだ。」(『曲線と直線の宇宙』より)
ペン編集部・編『名作の100年 グラフィックの天才たち。』CCCメディアハウス 2017
亀倉雄策『曲線と直線の宇宙』講談社 1983