早春の風は思春期のゆれる心。「早春賦」そしてもう一つの「菜の花忌」

実は親しみやすいティーンエイジ目線の歌なのです。もやもや・うずうず「早春賦」

春は名のみの風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
氷解け去り葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
春と聞かねば知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思を いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
現代風に意訳しますと、
「春とか言ったって全然風は冷たいし。
ウグイス鳴くかなんて期待しても、ちっとも鳴いてくれないし。
氷が溶けてアシも芽吹いてきてるよね。
なのに、は?フェイントですか?昨日も今日も天気は雪なんですけど。
言われなければ気にもしないのに誰だよ、もう春だとかいうやつ。
言えずに押し込めたこの気持ち……伝えることもできなくてあせる。あーもう、どうしたらいいんだろう?」
こんな感じでしょうか。
格調の高い文語体と流麗なメロディに煙に巻かれてしまいがちですが、きちんと歌詞を読み直すと、行き場のないもやもやや他愛ない八つ当たりに終始していると思いませんか?勇ましくも美しくもない。ロマンチックでもドラマティックでもない。でも、初心(うぶ)な思春期の普通の男子や女子たちの日常は、実際こんなものなのではないでしょうか。子供でも大人でもないつぼみの時期であるティーンエイジ(thirteen 13歳~nineteen 19歳)。変わっていく環境や自身の体。思い通りにならない友人関係や恋、将来の進路への夢と不安。大人の抱える悩みから見ればたいしたことがなくても、当人たちにはにとっては重大な問題です。そんな思春期の鬱屈やそわそわ・ざわざわを、早春という季節とシンクロさせつつ、見事に表現していて、何ともいじらしく、そして懐かしくなってくる歌詞ではないでしょうか?
作詞者の吉丸一昌は、現在の大分県臼杵市に1872(明治6)年に生まれ、府立三中(現都立両国高等学校)の国語、漢文の教師として赴任。後に東京音楽学校(現東京藝術大学)の国文学教授と生徒監に就任し、この頃か自らの自宅アパートを私塾「修養塾」として開放し、貧しい若者の衣食住の面倒と就職の斡旋を行い、また、自費で夜間中学を開設したという、あまり知られていませんが明治から大正期にかけての教育界の偉人です。自身は質素な生活をしながら、学生たちへの支援は生涯続けられました。社会に羽ばたく前の若者たちのために尽力した吉丸だからこそ、このような詩が書けたのでしょう。
「早春の詩人」伊東静雄。マイナー作品に描かれた思春期の心

みささぎにふるはるの雪
枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは(「春の雪」より)
で始まるこの有名詩より、晩年に書かれたマイナーな詩「無題」に焦点を当てたいと思います。
だあれもまだ来てゐない
机も壁もまだしんとつめたくて 部屋の隅にはかげがしずんでゐる
自分の席にこしかけて 少女は机のうへの花瓶の花にさはってみる
時計が誰のでもない時をきざむ
何とはなしに手洗い所にいく
そこのしろい明るさのなかに じぶんの顔がかがみの奥にゐて素直にこちらを見る
そのかほをガラス窓につけると
大川が寒い家並の向ふで こいい靄をたてて
こぶこぶの鈴懸(すずかけ)の列がねむたさう
ふいに「春が来るんだわ」
とわけもなく少女は思ふ
すると
くすんとそとの景色がわらって
ビルのその四階の窓へ めくばせした
そして一帯に朝の薄陽が射す (「無題」)

社会の荒波に放り出されて不安げな少女を朝陽が一瞬で包むような最後の描写が、筆者は好きです。
「菜の花忌」にこめられた秘話とは
萩原朔太郎は詩誌「コギト」に寄稿し、伊東静雄を「久しく失われていた真の抒情詩人」と絶賛します。
ひさしく抒情詩が失はれてゐた。これは悲しい事実であった。
詩といふものはあった。それは活字によって印刷され、植字工によってメカニカルに配列されたところの一つの工業図案的な絵文字だった。人々は詩を玩具にした。魂が詩を「歌ふ」のではなく、機知が詩を「工作する」のであった。
(中略)
雑誌「コギト」の誌上に於て、伊東静雄君の詩を始めて見た時、僕はこの「失はれたリリシズム」を発見し、日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い喜びと希望をおぼえた。これこそ、真に「心の歌」を持ってるところの、真の本質的な抒情詩人であった。(萩原朔太郎「わがひとに與ふる哀歌~伊東静雄君の詩について」)
これに反発したのは、萩原朔太郎の第一弟子のポジションを自他ともに認めていた三好達治でした。ひとかどの抒情詩人として作品を発表してきた自負もある三好にとっては、「伊東静雄以外抒情詩人はいない。」と師匠に断言されては、面白いわけがありませんよね。折りしも伊東静雄の出版記念の祝宴で、三好は伊東の詩を難解すぎること、強引な語法や語彙であることなど欠点を指摘します。実はこれは、暗に朔太郎の新詩集「氷島」に対する批判もこめられていました。朔太郎にもそれは分かっていましたから、祝宴の席で朔太郎vs達治のバチバチの論争が勃発することになります。後々まで語られる昭和詩壇の一事件でした。
それ以降、「四季」などを通じての同人仲間ではあっても、三好は長く伊東の詩を認めようとしなかった、といわれます。しかし、1949(昭和24)年以来患い続けた結核がいよいよ重くなってきたことを知ると、富士正晴、桑原武夫らとともに伊東静雄の詩業を網羅した全集出版に奔走したのは三好達治でした。全集の出版は、1953(昭和28)年昭和28年3月12日の伊東の死後、四ヶ月ほど経った七月のことでした。その翌年昭和29年には、故郷諫早の有志が詩碑の建立計画を立ち上げ、これにも三好は賛助者として名を連ねます。詩碑に刻まれる銘文は、伊東の「そんなに凝視るな」からの一節が選ばれます。
手にふるる 野花はそれをつみ
花とみずからをささへつつ
歩みをはこべ
この詩句の銘文は、何と三好自身が直筆書写し、これを写し取って刻まれました。確執があったかのように語られることもある三好と伊東ですが、伊東は「難解すぎる」という三好の指摘を受け入れて後に平明な詩作を心がけるようになったといいますし、三好も萩原朔太郎に認められた伊東の才能と感性に、強い尊敬の気持ちを秘かにもっていたようです。
「菜の花忌」として三月の最後の日曜日に追悼がおこなわれるようになったのは昭和40年の13回忌からで、つつじの名所として知られる諫早公園の詩碑の前に、菜の花とビールがささげられます。
第34回(1999年)の菜の花忌には、同じ忌日名をもつ故・司馬遼太郎夫人から、「同じ野花を愛された詩人の魂にこの花をささげます。」とメッセージが届けられたそうです。春を先取りするような暖かいエピソードです。
早春賦
伊東静雄詩集 (現代詩文庫 思潮社)